金谷潤子
7月7日
本日四国八十八ヶ所霊場を全て周り終えて(これを結願と言います)、一番札所霊山寺に戻り満願の御朱印を受けました。
5年前の5月に家族4人で初めて行ったお遍路参り。
その後は子供達はもうお付き合いしてくれなくなり、2人でコツコツと週末を利用して周って来ました。
1日に周るのは1ヶ所からせいぜい多くても7ヶ所くらい。全部で10回くらい足を運んだでしょうか。
思い返してみると、長い様であっという間でした。
始めた頃はまだそれ程人も居なく、早朝や夕刻の山寺は人気も無くて味わい深いものがありましたが、最近の御朱印帳ブームで観光バスや外国人ツアーも増え、随分賑わう様になって来ました。
最初は私も単なる御朱印集め、道の駅スタンプラリーのつもりで気軽に付き合って始めたお遍路参りでしたが、回を重ねるごとに仏教の奥深さ、死や老、病苦に対する意識、自分自身の魂の在り様などを感じる心がまるで導かれる様に研ぎ澄まされてくるのを感じていました。
修行とは(こんな車遍路ごときで修行などと抜かしてはいけませんが)良く考えられているものだと感心します。
長い歴史の中で人はいつも迷い、悩み、憂い、苦しみ、そして神や仏に祈ることで不安や欲望から解放されていくのでしょう。
人生に必要なことはそれほど多くは無いのだと思います。
たくさんの物を持っていても、
どれ程の経験をしても、
今生が終わる時には全て脱ぎ捨てて、真っさらな魂になり次の世に向かうのですから。
どれだけ感謝できるか、
どれだけ満ち足りるを知るか、
それこそが人生で得る、まことの「生きる」意味なのかもしれません。
「死」に多く対峙する私には、ありがたい道程でした。
八十八ヶ所目のお参りを済ませて、参道を出ようとした私たちに1人の高齢男性が話しかけて来ました。
足元はおぼつかなく質素な身なりで、手にしたレジ袋から個包装のおせんべいを2枚ずつ私たちにくれました。
「これで病気が治りますよ。」
きっと彼は弘法大師様だと瞬間に思いました。
何度となくお参りをしていても、そんな風に語りかけてきた人など居ないのです。
「もう煩悩から解放されなさい。
心に多くを持つのはやめなさい。」
と、お伝えして下さったのではないか。
5年のお参りで得たものを、今一度反芻し心に刻んで、
明日からの医業に生かして参ります。