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2019.08.29

訪問診療ブログ『タピオカドリンク的なものの危険⚠️』

金谷潤子
8月28日

今日患者さんの往診に行くと、「食べた時に、最近咳が止まらないみたい」と奥様から。

この方は今まで、お粥に柔らかおかずのトッピングで安定して摂取できていたはず。
特に変わった様子も無さそうだし、どうしたのかな。

数ヶ月前から入って頂いていた、ひだまり歯科の二俣 慎先生に早速連絡して、アセスメントをお願いしました。
そして直ぐに二俣先生からご連絡が。

どうやら、最近のお母さんのブームは「フルーツを刻んで入れたヨーグルト」
ところが、刻んだフルーツからは直ぐに水分が出てきてヨーグルトはシャバシャバになります。
「これですよ、原因は
そうか!ナットク!

高齢者や障害者の嚥下に少しでも関わっている方には常識ですが、飲み込む時に一番誤嚥しやすい(ムセやすい)のは、固形物と水分が同時に口に入ってくる形態の食べ物なんです。

ん?何じゃそりゃ?

例えば巷で流行りのタピオカドリンクとか、
具沢山のお味噌汁。

お味噌汁と具が同時に口に入ってくると、口の中で具を噛んでまとめようとしている間に、味噌汁が喉の奥に流れ込んでしまい、誤嚥(食道ではなくて気管に入ってしまう)します。
水分だけの場合は水分に口や舌が集中できますが、水分と固形物が同時に入ってくる様な食べ物が一番難易度が高いのです。
お味噌汁を提供するときは、少し見映えが悪くなってしまいますが、具と汁を分けて食べてもらうと安全に摂取することができます。

物を食べて飲み込む際には、私たちの舌や口や喉は知らず知らずのうちにとても複雑で奇跡の様な動きをしているのです。

しかし、加齢や脳梗塞などで嚥下機能障害を負うとそのデリケートでスムーズな動きが損なわれてしまいます。
噛んでいるうちに、喉の奥の栓が緩くなり、肺に漏れて流れ込んでしまうのです。

二俣先生はお母さんに、
水分の多い食べ物は水を切って食べさせてあげること、
ヨーグルトとフルーツは別々にあげることなど、
色々丁寧にアドバイスして下さいました。

そして私は早速訪問看護さんにも連絡。
二俣先生と訪問看護さんを繋げて、
忘れん坊のお母さんに、二俣先生のアドバイスがしっかりと身につくような日々の生活の工夫とチェックをお願いしました。
訪問看護さんも二つ返事で喜んで受けて下さいました。

※写真はムセの原因となったフルーツ入りのヨーグルトです。
お母さん、丁寧に果物を小さく刻んで食べやすくしてくれたのですが、その為にシャバシャバになっちゃいました。

2019.08.29

訪問診療ブログ『老い』

金谷潤子
8月23日

歳をとればそりゃあ色々なところが老化する。
肌にシワやシミができ、
疲れやすくなり、
若い時みたいな詰め込み勉強はもうできない。
テレビで見かける人の名前が出てこない、アレあの人、ホラ誰だっけ。
あちこち痛いところもあり、
髪はボリュームが無くなり、
白髪が増える
排尿間隔は近くなり、
勢いも無くなり、
たまにはちびることも。
飲み食いしていて
時々むせることもある

これは病気では無い。

老化だ。
自然な成り行きだ。

認知症は脳の老化現象に対して病名が付けられたもの。
老化のメカニズムも様々だろう。
当たり前だ。
人の身体のメカニズムはまだまだ分からない事だらけなのだから。

研究は素晴らしい作業である。
少しずつ色々なことが解明される。
ありがたい恩恵がもたらされる。

しかし、認知症の病名で人が区分けされていくことにはどうしても疑問を感じる。

どんなに忘れん坊さんでも、
胆振東部地震の時は、
何も操作できないのに、
何の情報も無いのに、
家の中で慌てずにじっと息を潜めていた。
いつのまにか、やかんや鍋にお水をちゃんと溜めておられた。
ライフラインが途絶え、暗闇の中往診すると、
「先生、大丈夫かい?」と
私をねぎらってくれた。
涙が出た。

今日は往診の際に
施設に入所中の高齢女性が
私にこう言った。

「皆、嘘つきよ。」

何を嘘をついていますか?

「私は病気かい?」

…。 ◯◯さんは病気ではありませんね。
◯◯さんはただお年をとって普通に少しずつ衰えてきただけですね。

彼女は真っ直ぐ私の目を見て、
大きく満足そうにうなづいて

「そうでしょう?
そうよね。」

そして、イタズラっぽく軽く私を叩いて楽しそうに笑った。(仕方ないのよね、分かってる…と目が語ってた)

彼女を記す欄には「認知症」と書かれている。
役所に提出する書類や
施設のカルテや
家族の心の中でも
彼女は認知症だ。

彼女は「認知症」を生きているのだろうか?

私は認知症という病名が嫌いなのです。
日に何度も口にしますが、本当は嫌いなのです。

若年性認知症に対しては、違う病名であって欲しいと感じています。
歳をとり色々出てくる不都合を全て認知症とくくらないで欲しいのです。

歳をとり、忘れん坊さんになっても
できないことが増えても、
その方はご自身の「老いを生きている」

2019.08.21

訪問診療ブログ『在宅医療について徒然に思う』

金谷潤子
8月20日

今は総合診療という立派なジャンルができ、在宅医療につきまとっていた、ひと昔前までの「引退した医師が何となく施設をまとめて診ている役割」というやる気を感じられないイメージも薄れて来ました。
しかし総合診療と在宅医療はイコールではなく、緩和ケア医療と在宅医療ももちろんイコールではありません。
誤解されている病院医療者も多いかもしれません。

病院に於いて、患者さんは「治療」を求める存在です。
ですから、生命を少しでも存続させる為の治療或いは治療のための検査が行われます。
病院の中で治療に使われる手段は手術や手技、薬物、リハビリテーションなどです。

在宅医療に於いて、患者さんは「治療」を求めるとは限りません。
そもそもその方の生活の場に赴きますので、そこで対峙するのは「患者さん」ではなく「個人」です。
この方々の求めることの多くは「生活の存続」或いは「叶えたい願い」です。

毎日をどのように過ごすか。
過ごしたいか。
どこで過ごしたいか。
その為にどんな工夫が必要か。

緩和ケアとは癌末期或いは終末期の患者さんが、苦痛無い生活を叶える為に行われる全ての工夫を指します。
私が講演会で良く話していることです。

家族や近しい方がしてあげたいこと全て。

風邪をひいた幼な子にしてあげることを思い出して下さい。
心配無いよ、ここにいるよと抱きしめて、
汗をかいた肌着を取り替えて、
消化の良い食べ物を用意して、
風通しの良いように工夫して、
子守唄を眠るまで歌う。
それは全てが素晴らしい緩和ケアです。

「緩和ケア医療」は麻薬など特殊な薬剤を苦痛を除く為に使いこなすことかもしれませんが、緩和ケア医療とは緩和ケアの中のごく一部でしか無いのです。

在宅医療では、
「もう治療の手立てがありません」
というセリフがありません。
なぜなら病院から外に出た場では、できる工夫は無限に広がるからです。
私が病院に戻れない理由はここにあります。

患者さんの不都合を取り除く工夫を無限に考えられる喜び。
患者さんが求める生活や願いを叶える為のチームに携わる喜び。

そこではルールは変化します。
患者さんお一人お一人の望みは全て違い、また同じ方であっても思いは変わるかもしれないからです。

病院での医療は「科学」や「統計」などであり「治療」という答が導き出されます。

在宅医療に於ける医療は科学よりも「哲学」「倫理」的意味合いが強く、「治療」という答に結びつかない場合もあるのです。
科学と違って、
「答は無い」か、或いは「答は無限にある」。
「絶対的」でもあり「相対的」でもある。

計算式でまとめられるものではありませんから、
大切な資質は「柔軟性」。
そして求められるのは「勇気」「真心」「慈愛」。
もちろん経験や技術は当たり前に必要ですが、その上でこれらのキーワードが生き生きと前に出て来ます。

これは福祉や介護業界でも同じことです。

ですから地域医療、福祉、介護において、マニュアルで誘導しようとしても必ず失敗するのです。
AIの不得意分野でもあるこのエリアにこそ、きっと人の未来を紐解くヒントが隠されているのではないかと考えています。

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